書評
若桑みどり『象徴としての女性像―ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』筑摩書房、2000年5月、501p+xii

 重たい本である。“重たい”というのは、500ページ余という大著の重量感ゆえのみならず、テーマが西洋美術史を扱っていながら、そこに歴史・政治・社会の重い・暗い影を顕わにしているからでもある。たとえば、ルクレティアを取り上げた第三章では、1995年に起きた沖縄の少女レイプ事件を章の冒頭に論じて、そこに見られた規範的言説はいかに男性中心の家父長制社会のどこにでも繰り返されてきた社会システムの反映である、と主張する。従軍慰安婦問題にも関わる著者ならではの視点である。だから本書を、美術史固有の述語と議論で構成されたものと早合点してページをめくっては、たいへんな“重さ”を印象付けられることになろう。そしてさらに、もうひとつの“重さ”とはジェンダー論特有の図式の硬直性に由来する。

 長い副題である。著者の本書に込めた意気込みが感じられる。アナル学派・社会史の興隆と共に“新しい歴史”“歴史の見直し”“歴史の掘り起こし”といった作業が流行となり、記録を残さず権力構造から疎外された人々の側に立って、女性史もジェンダー理論の裏づけによって書き直そうとする企てが続いているが、本書もまたその一環に組する。

 まず、著者について、あらためて紹介するまでもないだろうが、美術史のみならず従軍慰安婦問題などの社会的活動、女性学、ジェンダー論の諸分野で大活躍の論客である。実を言うと、彼女が学界に登場してきた頃私はまだ青春時代であったためか、「若桑みどり」という華やいだお名前に胸をときめかさなかったかと言えばウソになるかもしれないが、今はその馬力に圧倒されて個人的には敬して遠ざけておきたい御仁ではある。が、その仕事振り・活動振りには注目を怠らず、敬意を持って著作を読ませてもらっている。代表的な著作には以下のようなものがある。『女性画家列伝』(岩波新書)、『マニエリスム芸術論』(ちくま学芸文庫)、『薔薇のイコノロジー』(青土社)、『寓意と象徴の女性像』(集英社)、『イメージを読む』(筑摩書房)、『絵画を読む』(NHK出版)、『戦争がつくる女性像』(ちくま学芸文庫)、『隠された視線』(岩波書店)、その他である。若桑女史はたいそうな重量級の研究者である。作家で言うと長編小説の本格派とでも言おうか。家父長制社会の権化のような日本の大学・学会・学者世界に対決する彼女の武勇伝(?)を耳にすることもあるが、さもありなん、と、たしかに旧態依然の学界の現状を考えると個人的には応援したい気持にはなる。(しかしこの点について一言いっておくと、男女を問わず若手の元気な研究者が続々と活躍しているのもまた現状であって、家父長制的体質の改革も含めて、私は学界の将来には楽観しているのだが。)

 本書の意図・主旨については「序論」で周到に論じられている。著者が“ジェンダー美術史”に至った、研究史的・理論的経緯と、その成果としての本書に見られる著者の認識の地平とが巧みに要約されている。それによれば、ジェンダー(=「性差の社会的・文化的組織化」(p.5))視点の萌芽は、西洋美術史上の「真理」という全裸の女性寓意像を見て、「骨格も個性も理性もない性的な女性像」(p.4)を創った日本文化とは異なる、「高貴な尊厳にみちた」(p.4)像を作り出した西洋文化への感嘆にあったようだ。さらに、社会史の台頭という歴史学の分野での新しい潮流も著者を後押しする。女性のたんなる生物的差異(出産機能など)に社会的・文化的意味を与えて社会化された両性の差異をつくってそれを権力構造の中に組み込んでいる制度が家父長制である。それは男女間の権力関係を意味している。従来の歴史家が無視してきたことであった。文化史についても「人類の文化」として記述されてきたことは、女性については「女の卑しい「性」(さが)やその飽くことを知らぬ性欲や、挑発的な裸体などを語ったり描いたりして、人々に「女」の性の劣等性とその反知性的、肉体的本性について知らせてきた」(p.6)。女性は「表象のなかでも常にものいわぬ客体」(p.6)とされ、歴史記述の主体となることなく、「人間の歴史」とはつまるところ「男の歴史」であり「男性の美術史」にすぎない、と著者は論難する。伝統的美術史では芸術作品を社会的現実や歴史から隔絶して自立的な美的創造物とし、その創作理論を主題とするのが主流であったが、表象イメージに含意された社会関係・権力構造に目を向けるジェンダー美術史は、「どのような文脈のなかで、その女性イメージが持ち出されたか、そのイメージがどのような宗教的、科学的、教育的、法的、政治的ドグマとして作り出され、誰がどのような状況で誰に与えたのか、また、そのイメージがどのような社会的効果を引き起こしたのか」(p.10)を論究することが課題である。

 そのようなジェンダー美術史の応用が、次のような5章に分けて論じられている。

第一章 女神の没落
第二章 禍いをもたらす女
第三章 ルクレティア――ファロス(男根)の帝国
第四章 紡ぐ女――アテナとアラクネ
第五章 女英雄ユーディットの変容

 <第一章 女神の没落>は母系制から父系制への大転換によって、かつて母系制時代には深く広く崇拝されていた女神たちが格下げされ、代って男性神や男性英雄を高い地位に上げられて女性神や女性英雄を貶めるイメージが作られるようになったことを、大地母神像が淫欲の寓意へと変容していくさま、また「運命の女神」像の変化を例に取り上げる。<第二章 禍いをもたらす女>では、パンドラ(壺で象徴される女性の生命力が男性の生産力=文明を破壊する)から、エバ(女性の身体の有罪性ゆえに懲罰を受ける)、マリア(第二のエバ)、リリト(悪魔のような子殺しの淫婦)を論じている。<第三章 ルクレティア――ファロス(男根)の帝国>では、強姦が家父長制支配とともに肯定されてきた歴史とその心性にふれた後で、ルクレティア強姦の背景には政治的表象があることを指摘し、さらに、彼女を貞節のモデルとして家父長的規範によって聖女化されていく歴史を論じている。さらにレイプ場面の描写がステレオタイプ化していく背景には、レイプもまた性愛の一形式であるといった言説があることを批判し、レイプとは他者支配・帝国支配の象徴・メタファーであると断ずる。<第四章 紡ぐ女――アテナとアラクネ>では、近代化の進行による産業の大規模化で女性は次第に労働の中心から排除されて、イデオロギー的に維持される家父長制社会の中の女性労働の主たるものとして「紡ぐ女」=未熟な労働者=低地位=低賃金という類型的イメージがつくられたこと、さらにそこには貞節・忍耐・謙遜という女性に課せられる美徳も寓意として込められていること、などが論じられる。この章の副題にある「アテネとアラクネ」について、ヴェラスケス「織女たち」の新解釈として著者は次のように呈示する。「アテネ」は高級芸術を意味し、一方「アラクネ」はヴェラスケスの視線の中心にあって下級労働女性でありながら芸術よりはるかに高貴な労働を暗示している、と。<第五章 女英雄ユーディットの変容>では、ユダヤ社会における男尊女卑的習性の中でのユーディット、エステル、ヤエルといった女性英雄に注目し、それが一見例外的にみえるが、貞節の強調は官能性を剥奪した強い女性像となって表象されること、そしてルネサンス期に入るとユーディットは共和制の象徴であり、対抗宗教改革においては彼女は「男殺し(ホミサイド)の女」として否定的な悪女として表象される。そのイメージは世紀末にはサド・マゾヒズムの不条理な女の性(さが)として描かれる。最後に著者はデミ・ムーア主演の映画『GIジェーン』についてふれ、そこでユーディットが男性の代役をした女であったことに思い至る。それは「男性支配社会の原理である暴力と恐怖を、自ら武器を持つことで代行した女性」「借り物のペニスをつけた女」(p.487)と解し、次のように言う。「彼女は男性原理に加担したのであって、男女両性の平等を実現したのではない」「彼女もまた男性社会が作り出し、ときに利用し、ときに否定しつつ、男性社会の維持に貢献した象徴の女性像にすぎない」(p.488)、と。そして「暴力にかわる原理によって勝利すること、これ以外にフェミニストが行く道はないのである」(p.488)、と結んでいる。

 以上の立論を、著者は、浩瀚な資料・文献・学説を駆使して、そしてふんだんに参照する図版によって訴えるのである。読者は、その理論的図式に飽き、饒舌な本文に疲れたならば、美術史の本を読むときの特典として、図版を眺めるだけでも楽しい。理論的負荷があって図版がそのように見える、読み取れる、ということを、本書のような強烈な理論的主張を意図した美術史関連書から学ぶのもよいだろう。では、図版を眺めるだけでそこからなにか理論的な立論は可能かどうか、それがこの種の美術史書を読んでいつも思うことである。

 最後に、畏れながらさらに批評を数言。第一。この手の研究において頻出しかつ鍵語ともいえる「表象」の意味が、私にはまだ釈然としない。ときに「イメージ」の同義のようであり、ときに共同幻想的な漠とした観念を意味しているようである。たんなる流行語としてでなく、理論図式に不可欠の概念規定を「表象」に与えていただきたいと思うのは私だけではあるまい。第二。この種の攻撃的フェミニスト特有の単純化(男は皆狼、男は皆家父長制社会の支配者およびその予備軍、etc.)はよろしくない。男性もまた内なるアニマを抱えていること、家父長制社会から疎外された男性も多いこと。微妙な差異を捨象してのいっしょくたの論理は学問研究の名に値せず、あまりに政治的・イデオロギー的になることに注意してもらいたい。ディスコース次第で歴史は容易かつ安直に書き換えられる、しかし、書き手のイデオロギー的立場を学問的にではなく政治的に反映して、である。第三。著者はかつて西洋美術史の中の裸婦象の研究をしている際、「真理」の寓意である女性裸婦像に出会う。それはエロティックな鑑賞用ではなく「女性の尊厳」(p.4)のために創られたもの、と著者は解釈し、「西洋には、これほどに高貴な尊厳にみちた上位の観念を象徴させる女性像があるのだ、日本のように、骨格も個性も理性もない性的な女性像を創った文化とはちがうのだ」(p.4)、とまで書かれると、ちょっと待ってください、と言いたくなる。本書の主題はいずれは日本美術を材料に論じてみたい(p.500f.)、というのが著者の次の仕事の構想らしいが、西洋を理想化するのもある種のフェミニストの特徴だし、また限界である。折しも、家父長制の典型のような相撲部屋に閉じ込められて親方に尽くし続けた花田憲子さんが“凛として”(『凛として・・・。』文芸春秋刊、参照)そこからの脱出を図り、自分の人生を生きようとしているのが今日の女性たちの大きな喝采的話題のひとつのようであるが、その決断や苦労の経緯が本にされて20万部近く売れているのは、西洋では考えられない日本的現象であろう。恨みつらみの一元論ではなく、悲喜こもごも、愛憎半ばの屈折した心象世界こそ、日本文化を支えてきたのであろうに。そのあたりの認識と洞察がなければ、日本美術史を題材にしようが結論が先行する扇動的議論で終ってしまうだろう。“妹の力”を信ずべし、と私は言いたい。たとえ著者言うところの「古代の女神たちが、男神たちに追われて、その値打ちを下げて行き、ついには、裸で球体に乗ってさまよい歩くサーカス女にまで没落して行」(p.499)ったのが歴史の現実だとしても、「サーカス女」の力を過小評価するのはすでに差別意識の反映である。今、私の手元にジョアンナ・ハッブズ『マザー・ロシア』(坂内徳明訳、青土社、2000)があるが、それはロシアの歴史と文化を総合的に見据えながらその深部・基部を支えてきたのが女性たち・母たちであることを論じている。

 このように見てみると、本書で著者が成したことは、美術史研究の内在的な論究に導かれて定立した原理論に基づくというよりも、歴史研究の一部としての美術史である。しかも、ルネサンス期以降、造形芸術(美術)という分野が芸術の序列の中で文人的領域への従属から脱して独自の理論的な枠組みを作っていった傾向とは逆行する。つまり、再び文人的理論から出発して方法的枠組みを作り出して研究の姿勢・方向を限定しようとする。造形的原理の自立による、たとえばバロック美術や現代絵画、さらに抽象絵画に関してはジェンダー美術批評はどのように可能なのだろうか。ルネサンスを専門とする著者の研究領域ゆえにこそ、歴史的背景を生かして本書のようなジェンダー美術史が可能なのであろう。そうであれば、家父長制社会云々という批評理論の枠組みもまた、歴史的・学問的に清算されるのであろう。

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